野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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雨の日

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雨が続くので、家で読書。池宮彰一郎の『本能寺』
色々と先輩の作品を「参考」にされたので有名な方だが(^_^)読むのは『島津奔る』に次いで2冊目だ。

 書評は他に譲るとして、ちょいと気を引いたのが、信長の側室「坂氏」を鈴鹿の関一族は加太氏の傍流である坂氏の出としている事だ。
戦国時代は腹は借り物と言われて男尊女卑が激しく、住んでいる所や父親の名前で呼ばれたが、「坂氏の女」は3男信孝を生んだものの、詳しい歴史は残っていない。織田家の武将に坂氏はいないそうで、足軽、百姓、町人の子だとの説も有るが、出身不明。
 信長は伊勢侵攻に当たり、先ず最初の抵抗勢力である関氏一族の神戸氏を攻めたが、後継者の居ない神戸氏に当時11歳の3男信考を養子にする事で和睦し、残りの関四家もこれに従ったのだが、ここから、信孝の母である坂氏は関五家の一つ加太家の重臣坂氏の出ではないかと言われいる。
しかし、伊勢侵攻後ならいざ知らず、側室とは言え、距離が遠く利害関係の無い織田氏と坂氏が結びつくとは思えないが、もし、あったとしたら坂氏ではなく、主筋の加太氏なり関氏なりの養女として入ったのではないだろうか?

 坂氏は林氏と共に加太氏の係累で、一族で婚姻を重ねていたと思うが、本家の加太氏は反信長意識が強く、浅井氏を助けて姉川の合戦で戦死したり、長島一揆に参加して戦死し嫡流は滅亡している。
叔父、定義が継いで、関氏一族と共に信孝に組み込まれていくが、本能寺の変では堺で四国渡海準備中の信考軍から脱出して戻り、伊賀越えの家康を加太から亀山まで警備したりした。
 戦線離脱の重罪も後継者争いでお咎め無しとなったようで、織田信孝=柴田勝家=滝川一益連合に組み込まれ、織田信雄=羽柴秀吉連合と対立していく。
滝川一益は亀山城を拠点として越前の勝家と秀吉を挟み撃ちにしようとしたが、勝家は雪で動けず、秀吉に個別撃破された。
加太城は織田信雄に落とされて落城。嫡男の定基が後に岡山の池田輝政に1600石で召抱えられたとか。

 さて、信孝。清洲会議で信長の跡は嫡男信忠の子、三法師が継ぐ事になり、信孝はその後見役として美濃一国と岐阜城の主となるが、上記のように反秀吉連合を組み、伯母のお市の方と勝家の仲を取り持ったりしている。
 秀吉は柴田勝家との決戦を前に後顧の憂いを無くすべく岐阜城を囲むと、信孝は三法師を秀吉に渡し、母坂氏を人質にして降伏した。しかし、賤ヶ岳の合戦が始まるや再度蜂起したので、秀吉は元主人の信長の側室坂氏を磔にして殺す。そして信雄が伊勢から岐阜へ駆けつけて城を囲むや、勝家滅亡を知って降伏。知多の野間大坊で切腹させられた。享年26歳
 その首は神戸城へ送られたが、四国征伐の前に信孝は神戸氏との養子縁組を解消して三好氏の養子になっているので、神戸氏側はこれを拒否した。
信孝は本能寺の変後、家来の大塚俄左衛門に命令して父信長の菩提を弔う為に、関に福蔵寺を建立していたのだが、検視役を務めた俄左衛門は信孝の首をこの福蔵寺に葬った。

 信孝の母が加太の坂氏の出であるかどうかは不明だが、運命に導かれるかのように、信孝は加太の入り口、関で眠る。
紙芝居作家出身で評論家だった加太こうじ氏を覚えている人もみえるだろうが、彼の祖先は江戸十二商と呼ばれ、幕府御用を務める豪商の呉服屋伊勢八だったそうだが、先祖は伊勢平氏だと聞かされていたとの事。
平清盛の曾孫、平盛国が三日平氏の乱を鎮めて関谷の地頭となり、北条氏の滅亡と共に鎌倉から関に土着した関氏の支流、加太氏の流れを汲んでいるのだろう。

加太家重臣の坂姓と林姓は今も加太に何軒か残るが、加太姓の家は無い
写真は秀吉が亀山城を攻めた時の本陣跡とされる所から旧亀山城跡を写した物


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