野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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地獄谷悲話

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先日猪を捕まえた罠も修理を終へ、車に積んでは新たな戦場(^_^)を求めウロウロしておりました。

 田んぼの畔で草刈りをしてみえた方に「罠を掛けとるんやけど、猪の出とるとこはないかな?」と聞くと「あそこに猪が入って荒らされた、あれではもう今年は取れんやろ」と案内されたのが最初の写真で、稲がかなり実っている為に、電柵を潜って田圃の入った猪は稲を歯でしごいて壊滅状態にしています。
「今度はうちの田圃が狙われるので捕まえてくれ」との事で隣接した山に入り、獣道を見つけて罠を掛けました。
 
 ここは「ちごんたん」と呼ぶ土地ですが漢字で書くと地獄谷で、おどろおどろしい地名ですが、それには悲しい伝説があります。最初の写真にある田圃の向こうの丘陵は小川城の南面で、ちょいと空が見えている所がおそらく虎口のあった鞍部だと思います。次の写真が北面で中央部が小川城となります。
 
 天正11年2月、雪の鈴鹿山脈を越えて秀吉が率いる数万の軍勢が伊勢の地に雪崩込みました。清須会議に不満を持つ柴田勝家と滝川一益は秀吉に反旗を翻して兵を挙げ、一益は亀山城に籠ったのですが、秀吉は越前の勝家は雪で動けないだろうから一益から個別撃破と伊勢攻めを行ったのです。
 
 滝川軍と秀吉に味方した主家の関一政を追放していた関家家臣団は近江に集結した秀吉軍は東海道を登って攻めて来るだろうと、鈴鹿峠を中心に迎撃態勢を整えました。
 それに対して秀吉軍は 滝川方が陣を張る鈴鹿峠の手前で左に折れ、山女原から安楽へ下りる安楽越への杣道を選び、殆ど無抵抗で伊勢平野へと雪崩込んだだのです。
 
 秀吉は平尾で軍を3つに分け、1隊は左に折れて上野に抜ける道を進み、山本城、小岐須城、原城など、峰城の後ろに控える小城を落として峰城を東から攻ます。次の隊はそのまま安楽川に沿って直進し、峰城を西から攻撃。
 
 そして秀吉の本隊は右折して亀山城や新所城、鹿伏兎城を攻めますが、その途上にあるのが小川城です。小川城は小川図書頭1100石が領し、最大動員力は100名、関氏3与力の一人として知られ関氏の北方防御の拠点でした。
 
 しかし、主力は鈴鹿峠の防御に出ており、城は空城同然で、秀吉軍の敵ではありません。城に残っていた老人や小川氏妻子は南の谷に逃げますが、たちまち秀吉軍に囲まれてしまいました。もはやこれまでと、子供刺して殺したあと、お互いが刺し合ったり腹を切ったりして果てました。それ以来この谷を地獄谷と呼ぶとか。
 
 最後の写真は地獄谷で果てた人たちを弔ったと言われる五輪塔や石柱。
 
 果たして田を荒らした猪にとっても地獄谷になるか? 結果は後日を待て(^_^)
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