野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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剣鉈磨き

 昼過ぎより雨の天気予報を受けて、早めに罠の見回りを始める。僅かに残る峰の雪もきっと消えてしまう事だろう。
harusen.jpg

 何れの罠も残念ながら変化無しと言う事で、里の罠で掛かりそうにない3基を山裾へ移動した。猪を狙っているのだが恐らくそのうちに鹿が掛るはずだ?

 中途半端な時間だったので、帰宅すると先日猪を刺した後の研ぎで黒皮を剥いで磨きに変えた剣鉈の研ぎの続きを行う。
 荒砥、中砥、仕上砥、水ペーパー、ピカールと仕上げた後の姿が2枚目の写真。「三代目正秀作」の銘がかなり薄くなってしまった(^_^; 宗正刃物のhpから作者は>昭和12年生まれ。二代目父と島根の名工川島忠善に師事。昭和50年、文化庁より刀匠の認定を受ける。平成元年三代目を襲名。
sandaime.jpg

 刀匠ときたからには、やはりここは地元の刀鍛冶、楠木正重と言う事で今日も長文(^_^)

 堺城から北畠氏に救われて、金場(元は金鋳場)に楠木兵衛助正顕(後に名を変えて正盛)が落ち着き、その嫡男正重が勢州桑名千子村住の刀鍛冶村正に弟子入りし、ここに戻って刀鍛冶を始めた。

 何故鍛冶屋になったか? 現地の金場へ行けばすぐに判る。恐らく、楠木氏が金場に落ち着いたら一門の人が次々に頼ってきただろう? それらの人を養うには金場の地は余りにも狭いので、地場産業であった鋳物から刀へと付加価値を高めたのにちがいない(^_^)
しかし、職人の座制度が強い中世に、どうして村正が楠木氏を弟子にしたのか? どうも楠木氏は桑名になんらかの縁があったのではないだろうか?

 正顕の次男か、それとも正行の系統なのか?ちょいと不明だが、楠木正理が長禄の変に関係したので、楠木を名乗る者は全て捕縛の対象になり、楠木氏は平之沢の地から平之沢氏を名乗り、三男正威が楠町の楠城城主になって楠山楠氏の家系が始まる。

 刀鍛冶と言っても平之沢城のお館様だから、実際は楠木一族につながる職人が集まっていたのではないだろうか? それを伺えさせる事として、初代か2代かが、今の寝屋川市出口町にいわば支店である河内駐槌場を作り、刀の製造販売や情報収集に当たっていたらしい。今も『河内茨田まった郡出口正重作』と銘す刀が実在している。
 2代正重は今の加太川俣神社がある川俣城に移り川俣氏と称した。また川俣と楠木を合わせて、木俣(木全)氏が起こったらしい? 正重の系統が楠平尾楠氏の流れだ。

 鍛冶としては代々正重を名乗り、刀には勢州正重と銘を切った。武家としての楠氏は加賀野井城で滅びるけれど、鍛冶としての家は残るがそれも正重の名は4代で終わる。
 
刀鍛冶の師匠筋である村正が江戸時代になって徳川家に仇なす妖刀として村正の名を使えなくなった。別に村正に不思議な力があったのではなく、三河に良い刀鍛冶が居なかったために、松平の家中ではこぞって村正の刀を買い求め、徳川家の凶事に何度も関わりがあっただけにしかすぎない。

 しかし家康は村正を捨てよと命じたので、作る側の村正は4代でその名を捨て、千子正重の銘で幕末で続くのだが、村正が弟子筋の名である正重を名乗った由来は不明である。
 
 なぞと考えながら五家荘山差をひたすら砥いだ。次にこれで猪と勝負するのはいつの日か(^_^)
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