野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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南部戦線異常あり

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 南部戦線異常アリ I氏に薦めらた南部丘陵ですが、鹿が掛っていました。名阪や伊勢道、そしてゴルフ場に囲まれて鈴鹿や布引山系から切り離された狭い地域なのに、鹿の雌が獲れたのです。鹿は雌と子供で集団移動をしますから、4基掛けた罠の3基が反応しており、2基は空弾きでしたが、1基が雌鹿の足を括っていました。山奥に住むはずの鹿が楠平尾で獲れては猪が獲れないのは当たり前だ(^_^)

 楠平尾と言う地名、楠が多いのかと言うと、そうではないのですね、実はかの楠木正成由来なのです。
 一般的には ♪青葉繁る桜井の里のわたりの夕まぐれ 桜井の別れの後、湊川で正成が打死に、その遺志を継いだ正行も、正平3年(1348)四條畷で斃れて終わりですが、時代は下って応永六年(1399)の事、西国6か国を領する大大名、大内義弘が幕府に反抗して堺城に籠もった。すわ、足利討幕の時来ると南朝の遺臣達がはせ参じたのですが、その中に、楠木正成の三男は正儀の子、楠木正勝とその子正盛、同じく弟の正秀の姿がありました。

 これに対して幕府は近国大名に動員命令を出し、細川、赤松、六角などと共に北畠氏にも出陣命令が出て、関の一党もそれに従ったのです。城攻めには将軍義満も自ら出陣するなど勢いがあって堺城はまもなく落城して大内義弘は討死し、その子持盛、弟弘繁は降伏しました。
 この堺城を攻めるに当たって往時は南朝方の柱石でもあった北畠勢は城中にはためく菊水の旗を見て討つに忍びず、落城の乱戦に紛れて楠木勢二十余騎を取り込み脱出させたと言われています。

 ま、実際は攻城に工作は常で事前に裏切りをさせていたのでしょうがね(^_^)
 正勝は途中で死んだとか十津川へ落ちのびたとの説がありますが、子の正盛は関氏の一族、鹿伏兎氏に匿われて平の沢(加太金場字平地)に住んだ事から平之沢と名を変へ、その子正重が林の城代となって、林の一部が楠原とか楠平尾となったと言われている?

 楠木氏と北畠氏は水銀繋がりだと言われており、楠木氏は水銀と物流でのして来ましたが、南河内は古代から製鉄が盛んでしたし、正重は桑名の村正の弟子になって刀鍛冶もし、古代から鉄に関係していたと思われる加太金場へ住んで館を与えられたのは、我が主張「鈴鹿の地名はすず=鉄に由来する」の説である鉄に関わりがあると思うのだが、長くなるので今日はこのへんで(^_^)

 さて、鹿は写真でも判る様に木の疎らな所なので動き回り、みかづちの脳天一撃で失神させるのは難しい為に、南北朝の争いで菊池氏が使い、恐らく堺城でも振るったであろう菊池槍の登場となった(^_^) 狙い一突きとはならず、モタモタして躱されながらも何とか仕留める事が出来た。
 斃した鹿は解体しても冷凍庫に納める場所が無いために、背肉だけを取って奥山へ運び、埋葬しました。南無阿弥陀仏
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  • 2016.02/14 00:42分 
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