野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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戦いと死と

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 昨日は、2日振りに山へ行くが、相変わらず罠の近くに獣の気配が無い。
 しからば新しき猟場を求めんと、既存の罠を離れてあちこち歩いてみるが、猪の足跡を見つけても道路から遠かったり、逆に近過ぎて獲物が掛った時に問題の起こる恐れがある所など、なかなか罠を掛けられる良い場所が無い。
 ただ、獲物はみんな山奥へ逃げた訳では無く、猟師の巻狩りを掻い潜って今も里山に潜み続ける強者もいるのは確かであり、そんな奴のヌタ場を集落の裏側で見つけたので、罠を掛けてきた。

 20年程前に植林された北垂れ棚田最上部で、ヌタを打ってから4~5日は経っているようだが、写真手前の他、奥に2つとこの畦跡に3基の罠を仕掛けたので、猪が再びここを訪づれたら最後の時となるであろう(^_^)

 近くに墓があったので墓の好きな私は(鬼太郎かい)さっそく墓石を見て回ったところ、従兄が戦死していたのを発見! うちは長男が養子に出て次男の父が家を継いだのだが、長男の叔父さんが戦死した息子の墓を建てていたのだ。私が生まれる前に死んでいるのだから知るはずも無いが、話に聞いた事もなかった。亡くなった私の兄が生きていたら80歳なので、戦死した従兄も存命だったら90歳にもなってなかったのでは? つまり20歳前後で戦死しているはずだ。
 墓石には軍曹となっているが、戦死特進を考えても20歳前後で兵長か伍長だった訳であり通常の徴兵では出世が早すぎるので、恐らく百姓なのになまじ上の学校へ行ったばっかりに17ぐらいで志願させられて何らかの専門兵種について下士官になり戦死をしたのではないか?
 
 その横の写真はビルマで戦死とあるので、インパール作戦に参加した久居の歩兵第151連隊だろう。無謀な作戦の代名詞にされているが、調べてみたら7月3日に作戦中止が決定されており、白骨街道を退却しながら、彼もまたその一つになったのだと思うと悔しい。

 次の写真左側はインド・アッサムで戦死とある。同じくインパール作戦での戦死であろうが、151連隊は昭和19年3月インパール作戦の増援部隊として、ビルマ方面軍に編入され、戦死の日となっている19年5月11日はシッタン河を渡河した日であり、アッサムは間違いであろう? と言うより、正確な戦死の場所も日時も判らないために作戦開始日を戦死日として戦死公報が来たのではないだろうか? 
 インパール作戦はアラカン山地なる3000m級の山を越えての攻撃であり、丁度梅雨の頃に東京から八ヶ岳や日本アルプスを超えて高山盆地に突入する位の距離と高低差を自動車も航空機の支援もなく、ジンギスカン作戦と称して、水牛やヤギの背中に荷物を背負わせて航空機や戦車を持つ優勢な英・インド軍に戦いを挑むのである。洪水と航空機の攻撃で水牛やヤギは荷物を背負ったまま溺れたり逃げたりでたちまち日本軍は裸になり、飢餓とマラリヤで死んでいった。

 その右側は南方へ送られる途中のバシー海峡で1944年7月31日戦死とあるが、調べてみるとこの日は南方へ向かうミ11船団23隻が、米潜水艦パーチー、スチールヘッド、ハンマーヘッドの3艦による群狼作戦の餌食となり吉野丸、扶桑丸、だかあ丸他悉くが沈没や損害を受けて、何と2万人近くが死んでいる!

 それぞれの墓石や墓全体に手を合わせたあと、更に我が戦場を求めて(^_^)樹林へと分け入った。
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