野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

Entries

戦いの陰

HEL.jpg
  雨が降って畑も休みなので毎度のヨタ話 長いよ (^_^)

 8月も半ばを過ぎましたが、この月のニュースは戦争と高校野球で多くが占められますね。この話題を繋ぐ人と言うと、我が郷土が生んだ天才は沢村栄治に尽きるのではないでしょうか?
 
 彼は1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)の澤村賢二・みちえの長男として生まれ、明倫小学校高等科の時に全国優勝をし、開校まもない京都商業の野球部にスカウトされます。

 そして1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退して、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦し、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、チャーリー・ゲーリンジャーという名立たるクリーンナップを4者連続三振に取ると言う伝説を作るのですよね。
 その年の暮れに大日本東京野球倶楽部」(読売ジャイアンツ)の結成に参加するのですが、沢村は慶応大への推薦入学が決まっていたのに、正力松太郎が「一生面倒を見る」と口説きました。その後2度の徴兵で手榴弾を投げ過ぎて肩を壊すや、巨人は約束を守らずに沢村を解雇しますが、父親をして慶応へ行かせておれば何度も徴兵される事もなかったのにと悔ませます。恐らく京都商業も巨人も親が子供の人生をお金で選んだ末だったでしょうから、忸怩たる思いがあった事でしょう。

 沢村の軍歴を見ると1938年に20歳の徴兵検査で甲種合格して久居の陸軍歩兵33連隊に入隊しますが、恐らく体格が良く身体能力が優れていたので?軽機関銃手になり、すぐさま前線に送られて左掌貫通銃創を受け、マラリヤにも掛るなどの苦難の末に1940年に復員します。
 負傷地についてはネットなどでは満州とありますが、33連隊が属した16師団はその頃に徐州会戦や武漢作戦など揚子江一帯を戦場にしていますからどうでしょうか?

 実は私の父は沢村が手榴弾を投げるのを見たと言っておりました。沢村より7歳上ですが3度応召しており、見たとするならば、2度目の上海事変の応召で南京攻略戦に参加したそうですから、その後の中支転戦中に沢村が応召して前線に加わり、娯楽行事として連隊対抗などの手榴弾の投擲競争があってそれを見たのだと思います?

 復員して巨人軍に戻った沢村は手榴弾の投げ過ぎで往年の力はありませんでしたが、それもわずか1年で又もや彼の元に久居33連隊に入営するようにと赤紙が届きます。開戦直前の1941年10月に応召されてフイリピンに出征し1943年1月までミンダナオで警戒に当たったそうです。

 そしてフイリピンから戻った沢村にはもうプロで投げる力は無くて復帰後まもなく巨人から解雇されてしまいますが、約束を破った巨人への恨み言を口外する事は無かったそうです。その後、軍事関連企業で働いていれば応召されないとの噂を信じて軍需工場で飛行機を作っていましたが、願いも虚しく44年10月に3度目の召集を受け、フィリピン向かう途中の12月2日に屋久島沖で乗船が米潜水艦シーデビルの雷撃を受けて戦死。享年27歳 陸軍伍長から2階級特進で曹長。

 沢村が乗っていた船名は判っていませんが、この時シーデビルに沈没させらたのは安芸川丸とはわい丸で、秋川丸はタンカーなので沢村ははわい丸に乗船していたのでしょう? この船には満州からフイリピンに向かう23師団が乗船していましたから、16師団の増援兵である沢村達は門司からレイテまで便乗しようとしたのだと思われます?
 郷土部隊である33連隊はレイテ島で玉砕しますから、レイテまで無事に辿り着いたとしても生きては帰れなかった訳ですね。

 このフィリピンでは厚生小から宇治山田中学、そして愛知電気鉄道(名鉄)を経て関大のエースとなり、阪神で3年活躍したあと満州に渡り1944年3月に新京電電から応召した西村幸生がレイテ戦に続くルソン島の戦いて、翌1945年4月3日バタンガで戦死しています。西村家はウナギ料理の老舗で幸生氏の甥、隆明さんが今も「うなぎ」の「喜多や」を経営されてみえますから、お伊勢参りの折には寄ってみては如何でしょうか?

 戦時中の三重県にはもう一つ歩兵連隊がありました。開戦直前の1941年11月に満州から動けない兵力を補う為に予備師団が作られ、京都・滋賀・三重・福井の師管区には留守第53師団が創設され、久居には歩兵第151連隊が設置され、1943年には南方軍予備とされますが、1944年にはインパール作戦に投入されて33師団の応援部隊となりました。その結果はご存知の様に無謀な作戦の代表とされ、補給が無くて餓死と病気で退却路は白骨街道と呼ばれたように、151連隊は1600名の部隊が250人にまで減りました。

 このインパール作戦では熊本工業で川上哲治とバッテリーを組んで甲子園では2度の準優勝を得、その後共に巨人に入って沢村ともバッテリーを組んだ吉原正喜が24歳で戦死していますね。吉原も久留米48連隊では手榴弾投擲競争でダントツの成績を納め、ビルマ戦線では白兵戦を戦い仲間の倍の距離を投げて命中させたとの伝説が残ります。

 高校野球100周年の中に涙あり。バットの代りに銃を持ち、ボールを握った手で手榴弾を投げ、異国の土となった人も多かった事に思いを馳せるのも良いのではないでしょうか。
関連記事
スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

ご案内

プロフィール

野梵

Author:野梵
ようこそ!自然生村のオヤジのブログへ
ホームページはじねんファーム(http://zinen.web.fc2.com/)
リンク欄をクリックして下さい

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

最新記事

フリーエリア

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR