野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

Entries

暢気

tuyu.jpg
 今日は台風の影響か、少し涼しかったので午前中に畑へ出る。しかし夏に変わりは無く、体を動かすとすぐに汗だくとなった
 そんな中で草取りをしていると、草の葉にキラリと光る水の玉
この所ずっと雨は無く、土は乾燥しているはずなのに、僅かに吸い上げた水を草が外に出したのだろう?

 今日の百姓一句
鎌先で汗と競うか草の露

 暑さには勝てぬとすぐに退散し、終日ネットと読書のなまくら三昧 >_<

 FBで友達にしていただいた地元の文筆家の方は、別な所では木原を名乗ってみえるとの事だが、この姓は亀山では隠れた名家のはずだ。
かなり前だが、木原家で少しだけお話を伺った事があり、その昔はのんこ茶屋を営んでみえたと仰った。

 のんこ茶屋は奈良の茶飯や家伝の糀醤(味噌の一種)煮豆で客をもてなし東海道でも指折りの立場茶屋と言われ、松尾芭蕉と能古は親友で、旅の途中能古茶屋に逗留し「枯枝に 鳥とまりたるや 秋の暮 の句を残しているそうな。

 ここまでは観光パンフにでも載っている事であるが、それでは面白くないので突っ込みを入れてみようw

 茶屋は野尻村の大庄屋打田権四郎が元禄3年(1690)に道心坊能古にやらせたのが始まりだったとされる。
道心坊と呼ぶからには、街道を門付けして渡り歩く、ちょいとキツイ言葉で書くと乞食坊主だったのだろう?
 また、一方において、大人になってから僧籍に入った者を指す言葉でもあるから、想像を逞しくすると、知識も教養もあった奈良のある人物が、何らかのしくじりをして全てを失い、身を流浪の僧としたのかもしれない?
 その素質を惜しんで、打田権四郎がスポンサーとなって茶屋を始めさせたに違いない? 権四郎にしてみれば、情報収集の場を作ったとも考えられる。

 明治2年の神仏分離令が出されるまではお寺とお宮さんはごちゃ混ぜに祭られており、布気神社にもお堂があったはずだが、その門前で流れの僧がお茶屋を始めるのには何らかの宗教的係わりがあったかもしれない。
布気(フケ)とは湿地を意味し、実は今の忍山神社の地にあったとされる説があり、忍山神社は愛宕山にあったとされるが、いずれにせよ忍山神社と布気神社は縁が深く、忍山神社のお寺部分は慈恩寺であり、権四郎の墓もそこにある。
慈恩寺の宗派は浄土宗であるので、禅僧だったとされる能古とは合わないところがちょいと引っかかるが、能古と木原家との繋がりに少し興味を持った。

 ただ、松尾芭蕉と能古が親しかったと言うのはいささか怪しい? 茶店が出来たのは奥の細道の旅を終えた翌年であり、芭蕉が店に寄るとすれば、最後の江戸下向となる元禄4年(1691)の9月30日頃と、最後の伊賀帰省となった元禄7年(1694)の5月27日前後である。
果たして20年も前の句を茶店の主に書き残すだろうか?

 布気神社から西へ坂を下って少し行くと、東海道では一番長い直線コースと言われた大岡寺畷があり、ここに亀山市の立てた芭蕉が詠んだと記された柱があった。
「空っ風の大岡寺畷 吹き通しつれもちからもみな座頭なり」
これはおかしい、「空っ風の大岡寺畷吹き通し」は野径が、「連れも力もみな座頭なり」は里東が、元禄3年(1690)に膳所の芭蕉門下が刊行した「ひさご」で詠んだ物を一つにして、芭蕉が詠んだ物としていると思うのだが?
もし、間違いだったら亀山の恥だから、関係者は直してね! (^_^)
関連記事
スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

ご案内

プロフィール

野梵

Author:野梵
ようこそ!自然生村のオヤジのブログへ
ホームページはじねんファーム(http://zinen.web.fc2.com/)
リンク欄をクリックして下さい

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

最新記事

フリーエリア

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR