野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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名越

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 昨日もバイクでご近所探検。田舎道は幅が狭く、途中で切れていたりするので探検には軽めのバイクが一番なのです。でも原付スクターではなく、赤いハンターCT110が欲しい(^_^)
 狙いは名越古墳です。能褒野稜の東側400m程にあるとは知っていましたが行った事は有りませんでした。歩いてでも十分に行ける距離なんですが出不精なのもので(^_^;
さて、愛車ロシナンテをトコトコと走らせて小道を行くと、それと思しめき所に、今日も真新しい石造物をハケーン。写真を撮っているとお爺さんがニコニコとして話かけて来た。

 話を聞くと、ここはおじいさんの土地で、石碑類は津市美里町に住む霊媒師を深く信じる近くの人に土地を貸し、その人が立てた物だとの事。倭健命の碑は、霊媒師が能褒野稜では何も感じなかったが、ここへ来たらビシビシと感じた。こここそが本当のヤマトオタケルの墓であるからその石碑を立てた。右側の石は能褒野神社の下にある公園・駐車場を作る際に出てきたもので、工事を請け負った業者がこの石だけは何故か処分が憚れたのでここへ据え付けたとの事。石の表面に「水の神」と書き、この方が相応しいからと何の根拠も無いが上に石を載せたそうである。右には由来書の碑文まである。
 個人の土地に好きで石造物を立てるのは勝手だが、歴史を重ねると誤解を招く恐れがある。ちょいと困ったものだが、本人達は至極真面目なのでどうしようも無い(^_^;

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 小さな石の社に天台宗 長瀬山 東荒寺跡の石碑。これはおじいさん(原さん)が立てたものだそうで、社の中には天王と彫った石が祭られていた。
この石碑の由来を語るには「昔、ここに寺があり、信長に焼かれたが、再建できずに半鐘が残され近くにある地蔵堂にある石柱に掛けられていた。今は下ろされているが、その半鐘には天台宗長瀬山東荒寺と銘打たれていたのでここにあった寺の名前だろうと思うので石碑を建てた」との事である。
 「オイオイ焼かれるとしたら秀吉の軍であり、半鐘なんて簡単に動かせるからここの寺の名とは限らないだろう」と思ったが口には出さなかった(^_^) 石の社には「天王」と刻んだ長円形の石が祭ってあり、昔古墳の上に木造の小社がありそこにあった物だが、古墳が道路や水路の工事の土取り場になったので石は下に下ろされていたので、石の社を作って入れたとの事である。
 信心深い人が金持ちになり、神様を祭るのは良い事だけれど、歴史公証は無視するのには困ったものだ(^_^;

 延喜式神名帳によると、ここには那久志里神社があり長白羽神(麻を育て青和幣(あおにぎて)を織った神)と瀬織津比売命 (早瀬の穢れを清める女神。 祓神や水神として知られ、瀧の神・河の神)が祭られていたが、明治41年に能褒野神社に合祀されたそうである。
一説によると、那は接頭語で久志は櫛であり、ヤマトタケルの后の一人であり走水で嵐を鎮めるために入水した弟橘媛が挿していた櫛を埋葬した古墳であるとも言う。

 と、ここまでは探せばネットに出てくるが、現地へ行って納得したり驚く事も多いのだ。
先ず、「天王」と彫った石が古墳にあった事。地名の「名越」は夏越の祓いを安楽川でしていた事が由来であるが、牛頭天王を祭る神事でもあり、この神は流行病・天災をつかさどる疫神であるとともに、 水神でもある。
 男神女神もゴチャゴチャにはなってはいるが、安楽川の氾濫を鎮める神様を祭っていた事は確かであり、古くから古墳に付随する祭祀施設があった事は伺える。
そしてこの那久志里神社とその塚こそが能褒野古墳=丁子塚よりずっと神聖なこの村の中心であり、ご神体でもあった事だろう。罰当たりな事に、能褒野神社に合祀した後で道路や水路の工事の際の土取り場として大きく抉られているが、調査によると前方後円墳であると言う。
 元々は水害と稲作の自然信仰の神があり、伊勢神宮の荘園であった背景や中世の神仏習合で神も仏も混在する場となったと思われる? 原さんの話では鉄塔の後ろにある藪は元は畑であったそうで、人骨がよく出たので墓地では無かったかとの事、また東50m程先の家が、農作業小屋を建てようとしたら石畳が出てきたので、埋め戻してその上に小屋を建てたと教えて頂いた。

 麻を育てて糸を紡ぎ、伊勢神宮に白い麻衣を織って奉った氏族、伊勢の麻続(をみ)氏の始祖である長白羽神を祭ったとするのも興味深い。ヤマトタケルの墓と言われる白鳥塚に隣接し、タケルを祭る加佐登神社は渡来人系の倭文(しどり)氏の氏神であったとも言われる。渡来人が倭文とはおかしいが、文様の一種で機織を得意としていた集団と理解して貰いたい。また倭文はシツとも読み、麻などの植物繊維の事でもある。距離的にも近いが麻でも繋がっていたようである。古墳史的には丁子塚と名越塚は同時期であり、鈴鹿川一帯の古墳郡では一番古く、ここから周囲に古墳が広まり白鳥古墳群はやや時代が下がるとどこかで読んだ記憶がある。何れにせよ川の畔で稲作をし、能褒野で麻を育てて麻布を織っていた人達の集落であった事は祭神から伺える。

 天台宗 長瀬山 東荒寺 と言うのは出来過ぎの感があるが詳しく調べるのも面白いかもしれない。「熱田太神宮縁起」によるとヤマトタケルの亡くなった場所は長瀬の地とあるそうだ。また延喜式巻九に「伊勢国鈴鹿郡並尓長瀬神社」とあるらしいのだが、伊勢国鈴鹿郡に長瀬神社は2つあるからヤヤコシイ。一つは鈴鹿市長沢町にあり、元は別の所にあったが武備神社の地に移って合祀しされている。亀山藩ではここにある武備塚をヤマトタケルの墓であるとした。もう一つは亀山市菅内町にあるが、ここも移っており、元は今のリケンテクノスの工場内にあったらしい。祭神は天照大神、瀬織津比売命、菊理毘売命で、ここでも瀬織津比売命が祭られている。同町内にある天台宗長賢寺は長瀬神社の別当の長瀬寺だったと言われているし、やはりタケルの墓と言われる鈴鹿市国府町の王塚にも近い。ただ、それらは鈴鹿川右岸であり、位置的に能褒野と言うには無理があるだろう。ともかく、ここに長瀬山なる地が加わると面白い(^_^)

原さんの意見は、ヤマトタケルは帰路の途中で亡くなったのであり、大きな古墳を作るのはおかしい。この小さな古墳こそがタケルの墓であると主張されたが、私もここがタケルの墓であるとするのはともかく、小さな古墳説には同意する。
 興味深い話はまだまだ続いたが、今日はこれまで。
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