野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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石物語

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今日は朝から適当に田舎道を走らせておりましたが、辺法寺で比較的新しい顕彰碑を見つけました。「義民喜八の碑」とあります。

明和5年(1768)亀山藩は幕府から朝鮮使節団の守山宿接待や富士川浚渫を命ぜられた結果、莫大な借財ができたので、増税をして凌ごうとしましたが、これに反対して亀山領83ヶ村の百姓が一揆を起こしました。
 伊船村の真弓長右衛門が書いた蜂起の召集文です。
「来る九月十三日、広瀬野に八十三ケ村の十五才から六十才までの男子は集まれ。一ケ村に五人、三人は鉈、鎌、鋸、槌、など持参のこと。また竹竿に紙旗をつけ村の印を画いて御持参すべし、また食器と三日分の食料も用意すること。村方役人の指示は無視すること。
御領分 八十三ケ村連名  広瀬野源太夫」

 広瀬野源太夫とは広瀬野(能褒野の一部)に棲むと言う伝説の狐の名です。
広瀬野には多くの百姓たちが集まり、やがて武装デモを始めましたが、一揆は動く事によって増える運動体です。次々と隣の村に押しかけますが、一家に一人の一揆参加を要請して、それに答えないと家を壊したり焼いたりします。また豪農や富商に対しては金や米や酒の提出を求め、これも拒否すると壊したり燃やしたりします。召集文にある持参道具は武器としてではなく、この家屋打壊し用の物ですね、一揆では人を殺す事はありません。

 当然に鎮圧の藩兵が出てきますが、一揆勢に手が出ないのす。一揆と言うとすぐに竹槍を連想しますが、主要武器は印地と呼ばれる投石器(スリング)でした。これで大量の石を投げてきますから刀や槍で武装した藩士も近づけないないのですね。
 この印地は時代や場所で材料は異なりますが、基本は万国共通です。右側の写真は雑巾を半分に切り、両端に紐を付けたものですが、紐の長さは50センチから1m程になるようにし、片方はさらに長くして腕にくくるようにします。これに写真のように石を入れてグルグルと回して手を離すと石は手で投げるよりずっと勢い良く飛んでいき、道具は腕に括ってありますから残ってすぐに次の投石に入れます。上達すると弓矢より遠くへ石を飛ばす事ができるそうです。
 しかし、狙いを定めて投げるには訓練が必要なのですが、みんな子供の頃からグルグル回しては石を投げて遊んでいるので上手いのですね。物騒ですが、東南アジアから海岸線に沿ってこれで石を投げ合う祭りが各地にあったそうで、日本では五月五日の子供の日には部落対抗で川を挟み、隣村の悪口を大きく叫んでは印地で石を投げあう風習があり、所によっては昭和20年頃まで残っていたようです。織田信長は子供の頃には悪ガキを引き連れては石合戦をし、徳川家康が今川に人質となっている時に安倍川で石合戦を見て、小数だが勢いと統率がある方が勝つと言った話などは有名ですね。大人になっても水争いなどではこれで決着を付ける事もあったようです。何年か前に亡くなった歴史学者の網野善彦氏がこの印地について詳しく書いてみえますが、中世京の都では事あるとごとに不満分子が印地を振り回して強訴するなど、歴史的に民衆反乱の最大の武器であり、何度も為政者から禁止されています。

 上手くなると大きな石を投げれますから強力な武器となり、武田軍が投石部隊を持ち、三方原の合戦ではこれで徳川軍の先陣を崩して勝利のきっかけを作ったのが知られていますが、どこの軍でも徴用した百姓は印地を打てますから、戦は投石合戦から始まるのが普通でした。室伏選手みたいなのを揃えて、一斉に握りこぶし2つぐらいの石を投げるのですから鎧兜を着けていても当たれば衝撃は大きいのです。足軽が頭だけを守る兜ではなく、幅の広い陣笠を被るのはこの投石対策の為とも言われています。

 5000人に膨れ上がった一揆勢は藩兵を蹴散らして鈴鹿川の阿野田河原に集まり、要求が聞き入れなければ江戸に出て目安箱に訴文を投げ込むと最後通告をします。亀山藩6万石は士分三百数十人、足軽小物の卒分二百数十人で総動員をしても600程ですから、150人の銃隊で威圧しましたが、本格的に衝突したら鎮圧できないでしょう。一揆の一部に菰野藩の百姓が混じっていたのと、亀山藩は海岸線の若松に飛地領を持っており、そこへも一揆を働きかけていますから、道筋の神戸藩も気が気ではなく、一揆の波及を恐れる両藩は援軍を申し出ます。
 事が大きくなる事を恐れた亀山藩は両藩からの申し出を断りますが、幕府に訴えられると郡上藩の金森家のように改易されかねませんから、結局は事態収拾のために百姓の要求を受け入れます。増税は撤回し、担当役人は罷免されて藩に協力した庄屋も処分(任務に忠実な人がトカゲの尻尾切りでカワイソー)そして百姓側は一揆の指導者として、明和6年(1769年)6月13日、伊船村真弓長右衛門、辺法寺村喜八、小岐須村喜兵衛の3名が井尻サンマイの露と消えました。極めて日本的な解決方法ですねぇ(^_^)
この中の喜八を顕彰した石碑と言うわけです。
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