野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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清洲会議の裏で

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すっかりご無沙汰しておりますが、いささか活性が低下している。日中は図書館で借りてきた小説を読み耽り、夕方に涼しくなったら畑へ出かける日々で、暑さと現実から逃避しております。

 従前はBOOK・OFFへ行って105円の文庫本を10冊購入しては読み捨てにしておりましたが、2年前に知人が図書館で小説を借りて読んでいる事を知りました。
図書館なんて何年も行っておりませんでしたが、行ってみると当たり前ながら、文庫本でしかも105円になる本よりずっと新しいのが無料で借りられる(^_^)

 そんな1冊が三谷幸喜の「清洲会議」。映画はこの11月に上映だそうですが、読み物としては全く面白くない。小説としては36万部も売れたようですが、幻冬舎さんの宣伝の勝利でしょうか(^_^;

 この小説や、恐らく映画でも出て来ないと思いますが、清洲会議後の動きで当地は重要な舞台となります。
本能寺の変後の後継争いでは、一方の旗頭である信長の三男、織田信孝の拠点が今の鈴鹿市、亀山市、四日市の一部、所謂、関氏の支配地だった所だからですね。
 信長の伊勢攻略は武力を背景としながらも、伊勢の支配者であった関・長野・北畠氏を攻め滅ぼすのではなく、養子縁組で乗っ取って行きますが、その最初が一番北に位置した関氏で、関氏本家に従わなくなっていた神戸氏を集中攻撃し、そこへ11歳だった三男信孝を養子に入れる事で和睦し、残りの関四家(亀山本家・峰・鹿伏兎・国府)もこれに従います。

 織田信孝が清洲会議後に滅びていく背景は強力な家臣団を持たなかった事でしょうね。信頼できる武将も兵卒もいかったので、長男、信忠に次いで優秀だと目されて一応は軍団長でもあった絶好のポジションを生かしきれなかったのだと思います。
 やはり十数年を過ごした伊勢神戸時代に、養子先の神戸家を始めとする関5家や北勢の国人衆をまとめ切れなかったからでしょう。

 信孝の家来は、先ず神戸氏に養子になる際、信長から付けられた者。傳役で信孝の乳兄弟だった幸田彦右衛門。岡本良勝 彼は熱田神宮の社家一門で信孝の母である坂氏の叔父。坂仙斎 生母の父親?。小島(坂)兵部少輔 信孝の異父兄 坂氏は小島家に嫁して子供を生んだ後、何らかの理由で信長の側室になったのか?。坂口縫殿助 鹿伏兎氏支族坂氏の一門らしい? その他、三宅権右衛門、山下三右衛門、末松吉左衛門尉、立木氏、河村氏等。
 
 次いで、養子先の神戸家譜代家臣は神戸480人衆と呼ばれ、主な者を15頭と言いますがその名を列挙すると、堀内、河西、太田、高田、村田、岡田、高瀬、佐藤、佐々木、岡部、疋田、馬路、片岡、伊東、古市。悔やまれるのは、山路弾正忠など信孝の家督相続に反対した骨のある武将を信長が粛清している事でしょう。

 これに高野山攻め以降は河内衆等が加わります。

 神戸氏を含む戦国期の関5家とその与力の動員力は5000人と言われています。それに北勢国人衆が与力しますから、信孝は伊勢の地だけでも8千程の兵は動かせたはずです?本能寺の変の直前の四国攻めに当たっては、伊勢・伊賀・山城・丹波の地主層や浪人に動員を掛けて15000の兵力を集めました。
 信孝は四国攻めには地元色を出した方が良いだろうと、三好康長の養子になり三好信孝と名を改め(この辺は本能寺のドサクサであやふやなまま)ましたから、神戸氏や関家にしたら思いは複雑だったでしょう。出兵していた関5家の一つ、国府氏は当主が幼かったので家老の国分市左エ門、打田新右エ門が兵を率いて行ったのですが、信長死すの報に接するや、関一族の司令官でもある関本家の関盛信に「今こそ織田家の支配を脱する好機だ」と焚きつけます。盛信もその気になって伊勢に帰ろうとすると、信孝の中核部隊が帰ると言うのですから、新募の兵はたちまち混乱して15000の兵は霧散し、山崎の合戦に信孝が率いた軍勢は4000でした。
 堺で15000の兵が健在なら、単独でも光秀に当たる事ができて、歴史も変わっていた事でしょう。しかし、信長は神戸氏や関氏を騙して関家一門を乗っ取っていますから、関氏に忠義心を持てと言うのが無理ですね、おまけに「これからは四国の三好だよ」って宣言していますからなおさらです。その後、信孝は市左エ門を切っていますが、責任者である盛信は不問にし、乱を控えて関家との関係を維持します。

 そのせいかどうかは判りませんが、信孝の影響力は残りました。関本家では家老の葉若氏と岩間氏の対立があったのですが、清洲会議後は秀吉側につくことにした当主の盛信は次男の一政を伴って姫路城へ臣従の挨拶に行った、その隙に岩間氏は豊田、佐野、草川など43人と共謀して叛旗を揚げ、国府、鹿伏兎氏も誘って信孝・柴田・滝川方に味方し、桑名の滝川一益を呼び寄せて亀山城を明け渡し、信孝を見限って秀吉についていた岡本良勝を峰城に攻めると、良勝は戦う事無く南勢に逃げます。
 姫路にいた関盛信は知らせを聞いて秀吉に亀山城回復を懇願しますが、かねてより柴田との決戦を準備していた秀吉は、雪で柴田軍が動けない内にと、7万の兵力を3分して、自身は主力を率いて近江から滝川法忠の軍が守る鈴鹿峠を避けて脇の安楽越えから伊勢へ侵入しました。

 写真は畑から500m程離れた峰家の家臣 山尾甲斐守の城館跡で、安楽越えに通じる安楽川の河岸段丘を利用して築かれ、川を越した先に峰城があります。恐らく瞬殺された事でしょう。
 峰家は当主を長島一揆の時に失い、後継者が幼いと言う理由で信長に廃絶されて岡本良勝が入りました。家臣団は引き継ぎますが恨みは残っていたようで、上に書いたように良勝を追っ払ってしまいます。守るのは滝川儀太夫が主将ですが、山本城の山本刑部、津賀城の小林筑前守、原城の堀内帯刀、小岐須城の小岐須常陸守など、峯氏以来の地元勢を主力とする3000人でした。 これを羽柴秀長率いる第2軍25000が攻めたのですが、頑張りましたねえ、亀山城が落城したあとも持ちこたえ、100余日も守り抜いたのです。しかし食料が尽きたので、滝川儀太夫が桑名に去って開城しました。恐らく、先に降伏した関家の者が城内の親戚縁者でもある地元勢に働きかけ、これ以上戦う意味が無いと諭したので、身に危険を感じた滝川勢が逃げ出したのでしょう。

 この戦いでは秀吉の道案内を働いた関本家の関盛信と一政父子が残りますが、滝川方についたその他の関氏一族は滅びます。その関本家は、あちこち移封されながらも江戸時代まで残り本貫地の亀山に戻りますが、戦略要地の亀山を外様大名が支配するのは不味いと伯耆黒坂5万石に移封されました。しかしここで家中内紛を起して改易されるのですが、主命を絶対視しない関家の伝統らしい終わり方です(^_^)

 冗長ながら名前を並べたのは、鈴鹿市や亀山市の人なら、周りで良く見かける姓が多い事を知って貰いたいからです。
教科書や小説は有名な人の働きを語りますが、実際に血を流して戦っていたのは、身近な方のご先祖様やその一族郎党だったのですね。
 今はかなりバラけていますが、それでも同じ姓が集中する地域は残りますから、これから推測すると戦闘単位は生産単位でもあったのでしょう。集落毎に小部隊を作って庄屋層=家臣が指揮していたと思われます、日頃の農作業で共同行動や任務分担と指揮系統は練れていたのでしょう。常備軍でない兵隊が集団戦を戦えるのは、戦闘を日常生活の仲間でしていたとすれば理解できます。
 後に兵農分離がありますが、その前に当地では主家が滅びて半農半兵の兵の部分は抜け落ち、黒坂藩へ行った多くも改易後は亀山に戻って帰農したのではないでしょうか? かくして当地には昔の名前が多く残ります。
 
 清洲会議で秀吉にしてやられた信孝は、織田家の拠点であった岐阜城に入りますが、織田家累代の家臣からは切り離されたので力を得ず、結局は「主(あるじ)内海(うつみ)の 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前 」と辞世の句を残して知多郡野間の大御堂寺で自害させられたのは歴史が示す通り。その首を確認するために神戸家に送られますが、神戸家は信孝は三好家に養子に行ったので最早当家とは関係ないと受け取りを拒否し、父信長を菩提する為に自ら建てた関の福蔵寺が首を引き取って葬りました。

 信孝には娘が残されたと言われ、その子孫が家名を復活させますが、織田氏ではなくて神戸氏として各地に残るそうです。母方の坂氏は今も鹿伏兎城の麓で多数の子孫が暮らしている(^_^)

 長文のお付き合いに感謝
これから喫茶店に行き、コーヒーを飲んで涼しくなったら畑に出ます。
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