野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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終戦記念日

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今日は敗戦記念日と言うわけで、戦争ネタでつ。
郷土部隊は久居の33連隊ですが、戦史で名を残しているのは、南京攻略とレイテ島での玉砕でしょうか?
うちの親父は3回も応召しており、青年時代は軍隊で過ごしたようなものですね。

 支那事変ではどうやら33連隊で出征したようで、南京攻略戦には参加しておりました。問題の虐殺に関しては「多少の略奪はあったかもしれないが、自分の知っている範囲での虐殺は無かった」との事です。婦女暴行に関しては「馬方をしていた奴が、軍隊では軍馬を扱っていたが、そいつが女好きで、夜に抜け出しては、翌日に自慢話をしていた」との事で、個別的な婦女暴行は行われていたらしい。

 太平洋戦争での応召は別の部隊で中国大陸で戦っていましたが、体が頑丈だったので兵科は重機関銃と言う事もあり、アメリカ軍相手なら、真っ先に沈黙させられますが、火力に乏しい中国軍相手では後方からの援護射撃が主で、生きて帰りました。
 やはり3度召集され、南方への移動中に乗船を沈められて戦死した沢村投手とも同じ部隊になった事があり、部隊の競技で彼の手榴弾投擲を見た事があるそうです。

 やはり目につくのはレイテ島での戦死ですね。団地下にある墓地で一番背が高い墓標が写真の物で、昭和19年11月比島レイテ島タガミ方面で戦死。陸軍准尉 杉本光雄とあります。墓を立てたのは昭和28年で兄の杉本一と記されていますが、たぶん団地の下にあり今は空家になっている、元三重大農学部教授だと思います?
 一氏は20年程前に80ぐらいで亡くなって見えると思いますので? 弟の光雄氏は30歳前後に、戦死進級があったとすると曹長で戦死されたのではないでしょうか?

 平時には人事や補給の下士官をして見えたと思いますが、タガミ方面で戦死とあるように、連隊本部と行動を共にしてみえるたようですね。連隊長の戦死は10月下旬だったはずですから、組織的抵抗が終わった後のタガミ高原で戦死されたのでしょう。

 レイテ島の戦いは、大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しいですが、読んでいると本当に大本営の無能で、多くの将兵が一方的な殺戮や飢餓の中で死んでいくのには泣けてきますね。サイパン陥落で水際防御作戦の無駄を知り、フィリピンの防御は縦深陣によるルソン島決戦としたのに、南方軍総司令官の寺内寿一が台湾沖航空戦の誇大戦果を真に受けて、急遽レイテ島決戦に作戦変更を行い、山下奉文が反対すると、命令だと従わせるわけですが、ルソン島からレイテ島への部隊移動を行う輸送中に殆どの戦力を沈められてしまい、装備や食料も持たないまま上陸して、強力な米軍により虫けらのように踏み潰され、焼き殺され、飢え果てていく。

 史上最悪の作戦と言われる牟田口廉也のインパール作戦もこの寺内寿一が認めたからですが、日本軍と言うのは、なぜこうも無能な人が上に立つのだろうか?
自分の命令で、多くの将兵が飢えてジャングルを彷徨っているその時に、前線からは遥かに離れて安全なサイゴンを司令部として、赤坂の芸者を軍属にして呼び寄せては身辺に侍らす。一方の極東米陸軍司令官のマッカーサーはレイテ島に兵士と共に上陸。
装備や兵数以前に、将帥の資質で日本軍が勝てるわけが無かったのだ。
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