野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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鈴鹿川流域の歴史

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所用があって四日市へ行ったのだが、帰りに鈴鹿市歴史博物館へ寄ってきました。
15年程前にできた建物で、かねてより一度は行きたいと思っていたのですが、時間だけは十分にある身分になって漸く願いがかなったわけですね。
畑の真ん中に馬鹿でかい建物がたっており、実際に中へ入ってみても無駄に大きくてバブルの残滓が漂っています。常設展示場を見ましたが道路工事や住宅開発などに伴う遺跡調査の出土品展示と、伊勢国分寺跡に隣接しているので、それに関する物が中心でした。

 期待していた、伊勢国分寺や国分尼寺を作り、所在の川曲郡を支配していた豪族、大鹿氏についての説明が少ないのには少々がっかりしたね。国分寺の建物跡地が3階から俯瞰できたり、出土の瓦の展示はあるのですが、その背景に触れる部分があまり無いので物語性に乏しく、金を掛けている割には面白くありません(^_^;

 伊勢の国は西に鈴鹿・布引・台高の山が聳え、東に伊勢湾がありますから、西から東へ流れる短い川が何本も流れ、概ねその流域毎に一つの郡と為していました。
平成の大合併の後を見ても、東西に細長い形の市や町が多いのですが、鈴鹿川は短い河川なのに古代より、上流と下流で支配が分かれていたのですね。
 これは一般的に、沖積平野の開墾は土木技術の発達する中世になってから行われ、上流の支配が時代と共に下流へ及んでいくのに対して、鈴鹿川は伏流水が多く、下流で幾つもの小河川を作って灌漑がしやすかったので、上蓑田遺跡に見るように弥生時代にはもう海岸近くで大規模水田が営まれていました。
それらを経済的基盤として、古代より中世まで大鹿氏が長きに渡って鈴鹿川下流域を支配していたのです。

 『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」なる人物が書かれています。その娘の菟名子が、采女になって都に上り敏達天皇の妻となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んでいるようです。『古事記』にもほぼ同じように書かれており、この糠手姫皇女が、異母兄の押坂彦人大兄皇子と結婚し、のちの舒明天皇の母となります。つまり大鹿氏は天皇系譜につながる氏族となるわけですね。

 一方の鈴鹿川上流を支配していた穂積氏はヤマトタケルの妻、弟橘媛の父ですが、弟橘媛の生んだ稚武彦王は天皇にはなれず、垂仁天皇の皇女であったタケルの先妻の両道入姫命が生んだ足仲彦が仲哀天皇になるわけですが、古代は母系家族ですから女系の家格は重要であり、曽我氏の後押しだったとは言へ曾孫が天皇になった大鹿氏が如何に力が有ったのかが知られます。
 この大鹿氏はタケルの父、景行天皇の頃に中央と関係を結び、雄略天皇の頃には三重の采女を出して、安閑天皇の頃には屯倉の管理者になり、壬申の乱でも大海人皇子を助けますが、『続日本紀』でも天平勝宝元年(749)に、聖武天皇が工事中の東大寺行幸の折に伊勢大鹿首が褒美を賜ったとあり、中央政府と深い結びつきを長きに渡って保ちます。

 旧亀山城近辺に拠点を置いていた穂積氏の方はタケル東征の功により、相模の磯長の国(小田原市国府津町から大磯町にかけての海岸地域)の領主になったそうですから、その折に亀山との関係が切れたのかもしれません? また讃岐の国にも褒賞を得たようで、弟橘姫の兄の穂積忍山彦根が香川県善通寺市大麻町の大麻神社の祭主になり、代々続いているようです。
 壬申の乱の頃には、鈴鹿市国府町に拠点を置いていた渡来人系の三宅石床が、鈴鹿郡や隣の奄芸郡の一部を支配して勢力を持ち、伊勢守として兵500を率いて関の厩に大海人皇子を迎え入れて鈴鹿の関を封じ、一部は近江から大和にかけての掃討戦に参戦して功を立てています。
 
 奇怪なのはその後、伊勢の国府や総社は鈴鹿郡にあるのに対し、伊勢国分寺や国分尼寺、伊勢一宮は川曲郡の、歴史博物館近辺に散在する事です。
伊勢国における政治的、軍事的力は戦略要地である鈴鹿川上流域を支配する者が握っていたが、経済力を背景に中央政府の要人と関係を深く持つ、下流部の大鹿氏が司祭権を持っていたことを伺わせます。

 大鹿氏は荘園時代の到来と共に、支配地を伊勢神宮に寄進して荘園の管理者となり、拠点も伊勢神戸に移して生き残り、鈴鹿川流域の統一支配は室町期になって始めて鈴鹿川上流の関氏によって成されます。しかし、関氏は領地を5つに分領支配したので、本家を亀山に置きながらも、長男を伊勢神戸に配して、亀山、峰、そして神戸は同等の勢力を分けたので、後に神戸氏は相対的に独立した立場になっていき、信長の伊勢侵攻に三男織田信孝を養子にして和睦を結ぶと、一転、神戸氏が関家一族の旗頭となりました。
 
平成の大合併でも、県の考えは鈴鹿市と亀山市、関町を合併して大鈴鹿市とする予定でしたが、亀山市の政治経済を牛耳る一部勢力(^_^)が自分たちの力を失うのを恐れて、それを拒んで関町のみと合併した今の姿があり、鈴鹿川流域住民は、決して仲が悪い訳ではありませんが、古代から現代に至るまで分立しています(^_^;
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