野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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朽ちていく山里

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久し振りに山の畑に行こうとしたら、亀山市小川町一色の県道11号線、十兵衛坂で前夜の雨で地盤が緩んだらしく、枯れた椎の巨木が道路に倒れこんでおりました。
電線や電話線に引っ掛かって掛かり木になっており、県警、県の土木課の職員の立会いのもと、土建屋さんが、チェンソーを振るっておりました。
 何の確保もしていませんでしたから、切り倒すのではなく枝を落として、取りあえず下を潜れるようにするだけでしょう?

 田舎道ですが、県道の若い番号が示すように、大昔は重要道路でした。
伊勢平氏と言われるように、伊勢・伊賀は平氏の拠点でしたから、平氏の都落ちと滅亡後の2度にわたって「三日平氏の乱」と呼ばれる反乱を起こします。その2度目の建仁3年(1203年)若菜盛高ら平家の残党が蜂起した乱の鎮圧に功があったのが、同じ平氏でありながら鎌倉方に味方をしていた平実忠です。乱後関谷と呼ばれていた鈴鹿川上流域の地頭に処せられて関氏を名乗り、関には代官を置きながら鎌倉で御家人として数代を過ごしました。鎌倉幕府の滅亡後、地元に戻り南北朝の抗争では始め南朝方について勢力を伸ばし、鈴鹿・川曲の両郡を領するようになります。

 関氏の本拠である関(室町期に亀山へ移転)から鈴鹿山脈の東麓を縫うように北方へ通じる道がこれでした。恐らく東海道の間道として使われていた事でしょう? 北からの攻撃に備えて白木とこの倒木の近くに小川城を築いて一族を配し、白木氏、小川氏を名乗らせます。
 小川氏は今の小川町全域と辺法寺町の一部を領し、室町期には150人の兵を動員したと言われますが、今は過疎地となり、一番大きな集落だった実家のある今里は年寄りばかりの限界集落です(T_T)

 久し振りに訪ねた山の畑はと言うと、イノシシの新しい掘り跡だらけで、絶望感に苛まれます。
7年程前に荒れていた畑を再開墾したのですが、当時はこれ程酷い獣害はありませんでした。この数年間で急激にイノシシが増えています。長い歴史を持つ集落もあと20年程で消へ、やがて田や畑の跡に植林する人も無くなり椎の巨木が茂る照葉樹林になって獣の天下となる事でしょう。
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