野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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メーデー

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♪ 聞け万国の労働者 轟き渡るメーデーの 示威者に起こる足取りと 未来を告ぐる鬨の声
今日はメーデーですが、近頃はめっきり影が薄くなりましたね。

 大正9年(1920)5月2日の日曜日に、日本で第1 回のメーデー が行われましたが、我が三重県では、大正14年5月1日に行われたメーデーが最初でした。
戦前の三重県では大きな工場が無く、組織的な労働運動も無かったので、無産階級運動を担ってたのは差別に苦しむ未開放部落の人達が中心でした。
このメーデーを組織したのも、三重県水平社と三重県農民組合であり、会場となったのも県庁所在地の津市ではなく、部落開放運動が盛んだった松阪は愛宕町の龍泉寺でした。

 その中心となった松阪車夫組合を率いていたのが全国水平社創立の中心メンバーの一人でもあった上田音市ですが、それらを支へ、三重県の労働者・農民運動の思想的支柱として活躍したのが河合秀夫です。
彼は確か一志町だったと思いますが? 造り酒屋の息子に生まれ、名古屋の第八高等学校から東京帝大へ進みます。ここで東大の学生運動組織であった新人会の影響を受けたと言われています。
 卒業後三重県に戻り、三重県水平社と三重県農民組合の合同機関誌である愛国新聞の発行に携わりました。社会主義思想の普及を目指していたので、敢えて愛国新聞と名付けて弾圧を避けようとした大人ですね(^_^)
この愛国新聞の発行は短い間でしたが、三重県の部落開放運動や農民運動の方向を決定付け、その流れは労農党→社会党へとして戦後も引き継がれていきました。

 三重県の戦前における自由や平等を求める運動は、差別の構造の元である社会体制の改革無くしては差別問題の解決は有り得ないとする、河合達が扶植した部落開放運動内のマルクス主義的な人達が中心になって担っていました。小林多喜二のように拷問の末に獄中で死んだ部落出身の元教師がいた事。植木等の父親であり僧侶であった植木徹誠も伊勢浅熊山の差別撤廃闘争で治安維持法で逮捕された事等を知って欲しい。

写真は我が団地から見た暮れなずむ錫杖ケ岳で、この山でも大きな悲劇がありましたが、それはまたの機会に。
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