野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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幕末亀山無惨

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 今日は久し振りに山の畑に行きましたが、ここへ書くネタにと少し遠回りして写真を撮って来ました。
私は見ていませんが、NHKの大河ドラマ『八重の桜』からちょいとばかり幕末人気のようなので、それにあやかろうと言うわけで、我が亀山藩の幕末物語
地元でも知っている人は少ないのですが、幕末の亀山藩で活躍した人物に黒田寛一郎と言う人がいます。

 幕末の亀山藩は藩主石川総和が嘉永6年(1853)39才で隠居して、前藩主の実子の総禄に譲るが僅か10年で卒去し、総和の実子で幼い総修が継いだが、この間、隠居の総和が隠然たる力を持ちつづけた。
執政は進歩派の家老近藤織部(鐸山)が取っていたのだが、寛一郎は小さい頃より書記役として鐸山に仕えていた。恐らく鐸山は使っている内に寛一郎の才能に気づき、家老として身動きのとれない自分の代わりに彼を勤皇の活動家として育てたようである?
尊王攘夷の意識が高まるや、行動には先ず具体的な技術をと鐸山に願い出て、砲術を幕臣の井上左太夫に学び、黒船を相手にするのには水泳術が必要と潜水作業を重視する作州津山藩士、植原六佐エ門に学び、免許皆伝を受けるや師の勧めで伊予宇和島で西洋造船術を学んだと言う。
時は安政五年(1858)伊井直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ぬままにハリスとの間に日米修好通商条約を調印した。寛一郎は宇和島から上洛し勤皇浪士として活躍するが、安政の大獄により開港反対派の逮捕が始まるや、鐸山は寛一郎の外遊を取り消して帰藩を命じた。

 亀山に帰るや尊王派として江戸や京都を駆け巡って活躍すると共に、藩主総禄の下で出世していくが、やがて前藩主総和の意を受けて藩内クーデターが起こり、佐幕派の佐治亘理を中心として加藤内膳や名川六郎右エ門の守旧派家老連が実権を握り、鐸山と寛一郎は蟄居となった。
動乱の影も濃くなる文久の始めに亀山藩も兵制の近代化を図るべく、会津藩士林権助を招聘し、洋式操練を藩士に伝習させようとしたが、事情によりその門人小幡枝織が来亀して兵制を改革した。また林権助は甲冑の製作も究めていたので、寛一郎は総修の甲冑作りを命じられた折に甲冑作りの技術をマスターしていたそうで、蟄居中は今も酒店として残る山形屋から金を借りて甲冑作りで糊口を凌いだと言う。
中央ではやがて慶喜が政権を返上したが、譜代大名の亀山藩は幕府と共に進む事を紀州藩主より要請され、一方、京都二条城の閣老板倉勝静からは王政が復古したのだから参朝せよとの命があった。
旧習の執政派はこの板ばさみに狼狽するばかりで策も無く、慶応3年12月25日、急遽、勤皇派や公家筋に人脈を持つ寛一郎の蟄居を解き、朝廷や京都の様子を探れと命令した。寛一郎は急遽三条邸に赴き、来合わせた薩長芸備の諸氏より京の様子を聞き、翌日28日には実美公に引見を許されたので、亀山藩は全藩上げて勤皇であると陳述した。

 30日、慶喜は会津桑名の両藩を先鋒とする大よそ1万の兵で鳥羽街道と伏見街道より京都進軍を開始した。
明けて慶応4年(明治元年)正月、これを阻止しようとする薩長芸軍との間に鳥羽伏見の戦の幕は切り落とされた。調停に当たっていた尾越土の三藩は戦いが始まるや一転、反幕軍側に付き、ついで彦根兵もそれに味方したので幕軍は崩れ、大阪へ退却しようとするが、幕軍として山崎の隘路を守っていた津藩が寝返り、幕府軍が敗北したのは歴史の通りである。
亀山藩は蛤御門の変のあと、幕府より八幡付近の守備を命じられており、橋本に藩兵150人程が駐屯し、ついで林権助の策で守口に転進していた。(余談だが亀山藩は6万石で士分2百数十人、卒分が3百数十人、全動員力は5~600人である。)
寛一郎はこれに解散の命令を伝え、藩兵は戦う事無く亀山に戻った。

 ここで近藤鐸山の蟄居を解いて政局を担当させ、佐治と名川の2家老は隠居した。
また、寛一郎は平岩亮太郎や新太久馬らと天誅組と言われる一派を形成しており、守口から兵が帰るや、佐治に取り入り隠居の総和の寵を得ていた藩医、高田良景が、八幡から守口への転陣は現地の隊長の独断であり、資金を送る事は無いと進言して、現地を困窮させたのを理由として、西町遍照寺の前にあったという住宅を襲い、今の亀山高校の北側の道、200m程東の交差点付近にあった、亀山藩の処刑場、井尻三昧へ連れ去り私刑に処した。
藩財政が厳しい中で、総和は南野町の西南隅に高田良景の進言で喬松館と呼ぶ豪華な隠居所を建てていたのだが、総和の不在中に天誅組はこれも壊す。
そして2月には逆クーデターとも言うべき藩人事が行われ、天誅組は要職を占め、寛一郎は郡代奉行となった。
当時の藩主は痘瘡で死んだ総修の弟成之(総和の子)であったが、同年10月8日、領内84ケ村の巡視を思い立ち、家臣24名を引き連れて見回り、同月26日に全行程を終えて無事帰城した。また残りの家臣の多くは25、26日に隠居の総和が国府で行った猪狩に参加した。
ご苦労様と、28日には家中一同に慰労の酒肴が出て休暇となったのだが、反天誅組の者たちは飲む程に酔うほどに、50石の小禄から、今や郡代奉行に出世して、家老の後ろ盾をよいことに、原則主義を押し通す寛一郎を切るべしとなった。

 石川治部右エ門を頭に茶川亮助、長尾彦四郎他46名、火事装束に身を固め、高張り提灯もあかあかと、江ガ室の寛一郎の屋敷に討ち入った。忠臣蔵みたいだが本当の話。
一方の黒田邸には清水一角のような豪の者はおらずに、寛一郎はたちまち槍に刺され、砲架に乗せられて高田良景と同じく井尻三昧へ連れられ、剣士大山岩太朗が首を打ち、他多数が死体に刃を打ち下ろして切り刻んだ。
またもやクーデターとなったわけだが、朝廷の覚えが厚い寛一郎を殺害したので、反天誅組は近藤を幽閉したものの前面には出ずに、中間派家老の名川を執政とした。
明けて明治2年正月。この事が京都に知れ渡り、藩主と隠居の総和は京都へ呼び出され、近藤の幽閉を解いて政務に当たらせる事と、寛一郎殺害犯を厳罰に処するように言い渡された。
黒田寛一郎の人生は、明治維新を時代背景に、隠居石川総和と家老近藤鐸山の争いに走らされたようにも見える。

 写真の石碑が亀山城の北側に立つ黒田寛一郎の顕彰碑、土塀は寛一郎の屋敷跡と思われるが、案内板はない。寛一郎は水泳が達者なので、掘に続く北側に多く人を配したというから、江ガ室で該当するのはここしかないと思う?
また写真を撮らなかったが、亀山城を背にして市役所側に立つ飯沼慾斎生誕の地の碑の隣にある、デカイ石碑が近藤の顕彰碑である。
長い駄文にお付き合い頂き感謝
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