野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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帰農

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今日も川畑2号の改良?である。
湿気が多いので、周りの溝を深くして、畑の中央を貫く溝を新に掘り、従来は畑の周りを迂回して水下へ流れていた雨水を、直流させる事で滞水をしないようにした。
そして中央排水溝に流れ込むように十文字に溝を掘る。写真では右が水上で左が水下。従来は背中側や右手奥にある隣地の水も道路側溝まで流れて、左側へと下っていた。
やたらに深い溝を作ると管理機の操作に不便なので、本当はもっと深く掘ってモミガラを入れ、土を被せて暗渠にしたいのだが、モミガラが無い。
溝の底がやや赤いのは粘土で、周りは畑で地主さんも畑だったと言うが、以前は田圃だったと思う。右隣の畑の向こうには、水は流れていないがコンクリート製の水路もある。

 写真左奥のこんもりと繁る森は安楽川(昔はこの辺りを和泉川と呼んでいた)越しに見える、ヤマトタケルの墓とされている能褒野古墳であり、森の下がタケルの妻子が泣き叫んで悲しんだ田圃にあたる。
白鳥になったタケルは左から右へと飛んで、人々は田の中を追いかけ、やがて高く舞い上がって海へと向かったと伝えられている。

 陵墓のあるあの辺りを名越と呼ぶが、元は勿越でタケルが川を越せなかったからとの説もあるがどうだろう?
墓域から100メートル程東(写真で右)に名具志神社と言うのがあったそうで、タケルの后であった弟橘媛を祀り、その傍らに小天狗塚があり、媛の遺品を埋葬したとか?
また、陵墓からそれ程離れてない川崎の集落には県神社があり、タケルと弟橘媛の息子である建見子王(若建王)を祀っているから、辺りで一番大きいからとの理由で選ばれたものの、この陵墓がヤマトタケルの墓では無いとも言い切れない。

 この陵墓の左で御幣川が安楽川に合流するが、ここから源流の椿神社に至る御幣川流域を古くは英多(アガタ)郷と呼んだが、タケルの率いてきた軍団はそこを支配地として留められたのではないだろうか?
郷内にある長瀬神社の武備塚はタケルの墓であると言う説もあるが、近年ではタケルの東征に従った吉備武彦や大伴武日の墓であるとの説が強い
処遇の道の無い強力な軍団を都に戻すのは危険だし、さりとて粗末にも扱えないので、名目上にタケルの幼児である建見子王を県主としてタケルの利権を保ち、部下たちに支配を任せたと考えるのはうがち過ぎだろうか?

 そんな古くから耕された田畑であるが、耕作放棄地が多い。しかし大きな団地に近いので、それを借りて定年後を無聊の慰みに耕すご同輩もまた多い(^_^)
定年帰農?と言う訳であるが、タケルに従っていた兵士たちも帰農し、この地で鍬を振るっていたと考えれば作業も楽しい。
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