野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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まだらの雨

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 今日は雨が降ったり止んだりなのを良いことに、ひがな読書三昧である
本は図書館で借りてきた、辻原登 著『韃靼の馬』だ

 2年前になるのかな?日本経済新聞に連載されていた小説で、朝鮮通信使を背景に朝鮮語、漢語、武術に優れた対馬藩士の阿比留克人が活躍する歴史ロマン小説だが、書評は他に譲って朝鮮通信と当地の関わりについて書いてみたい。

 朝鮮通信使とは、将軍の代替わりごとに朝鮮国王からの親書を携え江戸を訪れた外交使節のことだが、小説にもあるように、その行列は華麗で多くの書画に描かれて今に残っている。
 とりわけ通信使で庶民の人気が高かったのが、小説では綱渡りの一団として描かれている、楽隊の演奏とその踊りであったようで、元々は朝鮮農民の祭りや宮廷の踊りであったらしい。
 従来の日本には無かった衣装や踊りのしぐさ、そしてメロディーはそれを見た人々に強い印象を与へ、各地の村や町の祭りに取り入れられたそうな。

 唐人踊りや唐人行列として、戦前までは各地に残っていたようだが、今は三重県の津市と鈴鹿市、そしてもう一つのどこか、3箇所だけらしい。写真左が津市で右が鈴鹿市のものだ。
 小説では仮面が重要な小道具として何度も出てくるが、今に残る祭りでもやはり「特徴的である。

 朝鮮通信使の行列は華麗であったが、小説にもあるように、応接を命じられた沿道諸藩や幕府の費用も膨大であった。
 一行の経路は草津から名古屋は東海道ではなく中仙道を通ったのだが、亀山藩は近江守山宿での御馳走役を命じられている。
 通信使を描いた物に、隊の先頭で「清道」の旗を掲げる騎馬武官のある図があるが、鈴鹿の山裾に住まう百姓達は増税に加えて道を清掃する為に助郷に駈りだされ、鈴鹿の山を越えた。
 そして、10回寛延八年(1748)、11回明和元年(1764)と続く接待役に藩主交代の費用増大を徴税強化で凌ごうとした亀山藩は、百姓の反撃を受けて明和五年(1768)83ヶ村、5600人が蜂起する明和の亀山百姓一揆へと繋がった。

 通信使を巡る費用負担に悩むのは幕府以下、何れも同じで通信使が江戸まで届いたのはこの11回が最後となり、12回は対馬留置、以降は中止となる。
 首謀者として3名が斬罪された、当地の百姓一揆も朝鮮通信使中止の役に立ったと信じたい。
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