野良爺風伝録

鈴鹿山脈の東麓で、薬草と機能性野菜の栽培に取り組む、気儘なオヤジの世迷言

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久し振りに鹿

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 秋もすっかり深まり、朝方に山へ向かうには上着の下にセーターを着込み、一山登ってからそれを脱いでおります。

 炭鉱節ではありませんが2山3山と越えたところで背中が汗ばんできましたが、山の神は正直者を見捨てません😁 幾つか山を越えたその先に、なんと11日振りの鹿が掛かっておりました。
 
 大きなメス鹿でしたが、在庫があるので埋設処理にしたものの墓穴を掘るのに大変苦労をしました。ところが帰宅すると犬のエサ業者さんから鹿肉の注文が入っておりちょいと後悔。

 猟期が始まって2日目から6日目までで4匹の鹿を獲りましたが、たぶん鹿の交尾期が終わったのでしょう?それ以来プッツリと鹿の姿を見かけなかったのです。
 
 月間目標を猪と鹿を合わせて10頭、そのうち鹿を7頭以上にするとしましたが、今日現在の所は鹿5頭、小型の猪3頭です。この調子では残り13日で鹿2頭を捕まえるのは厳しいかもしれません。

 土の柔らかい雨降り後ですが、鹿の足跡も殆ど見かける事がありません。この頃の鹿は一体どこに居るのだろう? 鹿を求めて山中模索 それでもふと見る山の景色の美しさに疲れも和らぎます。
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黒ウコン栽培に失敗

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空は晴れ渡り鈴鹿の峰も際立つ温かな日曜日でした。畑に出て黒ウコン(原産国のタイではクラチャイダム=黒ショウガ)を見ると、先端が枯れてささくれだっています。昨冬は寒さでやられてしまったので早めに収穫してしまおうと掘り出すと、根茎が全然ついていない!
 
 岐阜大が栽培研究に取り組み、企業とタイアップして沖縄で経済栽培をしていますが、本州でも栽培できないかと毎年タイへ行く知人に頼んで種イモを貰ってきてもらい、昨年の失敗にもめげず今年も栽培に取り組んでいます。
  
 掘った株の根元を見ると、根茎になろうとする萌芽はいくつもあり、早く掘り過ぎている様です。しかし温度が低くなるので成長が期待できません。
 
 つまり成長に必要な温度の期間が短いので、その成長過程を全うできないのですね。
 一番の問題は自然発芽だと7月の始めでないと芽が出て来ないので、まず地上部を成長させ、ついで根を育てて栄養を蓄えようかと言う頃に温度が低くなり成長が止まるのではないかと思います?
 
 来年は種イモを加温して人工発芽をさせてから植えつけようと思います。小芋はできていなくても親芋は生きていますから、これを何とか無事に越冬させたいのですが、これがなかなか難しいのですよね。
 
 16株ありますので、掘りあげた5株を大きな植木鉢に植え替えてビニールハウスに入れました。残りは畑にそのまま残し、霜が降りる頃に堀上てもみ殻にいれ屋内保存する予定。
 
 黒ウコンは東南アジアでは精力増強の効果で知られていますが、厚生労働省の薬指定を受けいないので食品として販売できるために注目されています。やはり本州で栽培するのは難しいですね。
 
 写真は畑に植わっていた状態、掘りあげた姿、黒ウコンの種イモに交じっていた春ウコン?全く同じ栽培条件でしたが小芋が出来ています。

鈴鹿山麓トレッキング

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 狩猟解禁が始まって11日が経ちました。猟果は鹿4頭に今年生まれた猪が1匹です。
 月間10頭を目標にしているので予定通りの数字ですが、7日の小イノシシを最後に獲物が掛かっていませんから、掛かる奴は掛かり、あとはもう期待出来ないのではないかと危機感を持っています。
 
 そんな訳で、今日は罠の見回りと共に、罠を掛け直す場所が無いかと獲物の足跡を求めてあちこちと山中を彷徨い歩いておりました。
 先の台風はどうも風が強かったようで、山には倒木が多くてなかなか前に進めません。大きな杉や桧が沢山倒れていますが、猟場とする雑木林で目を引くのが、コナラやクヌギの枯れ木がやたらと倒れている事です。
 
 ナラ枯れ病で枯れた木が強風で倒れた物と思いますが、その被害の激しさを知らされました。ナラ枯れ病はカシノナガキクイムシ(カシナガ)により「ナラ菌」という病原菌を木の中に運び込むことよってナラ類やシイ・カシ類が枯れる伝染病であり、それらの樹木はかって薪炭材料として利用されたものの、今は使われないために騒がれませんが、かなり被害が進んでいるようです。

 雑木林を掻き分けて出たところが、トヨタ自動織機のテストコース工事現場!
 ザッと見では高速周回コースは2キロも無いのではと思いました? まあ、作っている車がヴィッツとRAV4だからビュンビュン飛ばすコースはそれほど必要ないのかも? むしろ様々な条件を設定をして自動運転のテストをするのだろうな?

 工事現場後ろの大きな建物がシャープ亀山工場でその上のピークが津市の長谷山。写真には写らないが、遠く渡会の山があり、左端辺りが伊勢湾口。

鹿2頭

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 雲一つ無い秋晴れの空の下、軽トラは西の山を目指して走る。
集落も終へた山道で移動クレーン車が道を塞いでいる。先日の台風で倒れたクヌギの大木を積み込んでいるようだ。
雨台風で風はそんなに強くなかったようだが、山の中では大きな木が沢山倒れている。恐らく雨が続いていたので地盤が緩んでおり、それ程強い風ではなくとも倒れてしまったのだろう。おかげで通れない山道があちこちにあり、罠を掛けられる場所も狭められている。
 
 しょうが無いのでバックして別の罠から見回ると、3つ目罠で雌鹿が掛かっていた。その罠は昨日まで別の所にあったのだが、罠の近くに米糠の小さな山を作っておいても獲物の食べた様子は無いので見切って掛け替えた所、一夜で掛かった。
 写真の止め刺し前を撮影後、近くに転がっていた枯れ枝で頭を叩いて倒し、止め刺し後の写真を撮って車に積んだ。そしていくつかの罠を見回ると、又しても雌鹿が罠に掛かっているではないか!、今期初めてのw捕獲である。

 当地では鹿による鉄道妨害が激しいので今年より国の補助事業として、11月から1月の間に、罠で鹿を捕まえると1匹8000円、それを埋設処理をすれば更に4000円が出る事になった。
 
 この事業に答えるべく、私はその3ヶ月で猪鹿を合わせて30頭、鹿率を7割と見て21匹の鹿を捕獲する目標を立てているが、今日で鹿を4頭。19%の達成率である。
 鹿に狙いを定めているので、民家近くの里山を捨て「猿丸作戦」と名付けて奥山に罠を掛けている為に、今の所は鹿率が100%だ。まずまずの滑り出しだが、猟師間の縄張り主張が煩く、自由に罠を掛けられるのは故郷の奥だけと範囲が狭いので、そこに新たな獲物の補充が無ければ、獲れば獲るほどに次の鹿を獲るのは難しくなるわけで安心はできない。
 
 どうすれば沢山の鹿を捕まえられるか? 取敢えずこまめに罠を見回ると共に罠を掛けてない山も歩いて足跡を見つけ、獲物の居そうなところへ罠を次々と掛け替えて行こうと思う。

雌鹿1匹、その後は講演会

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 今日も快晴、温かな晩秋の陽を受けて紅葉ゆらめく山中を罠巡り。
子供の頃は畑だったのに、耕作放棄後植えられた杉もすっかり太くなった場所でメス鹿が掛かっていました。
 時間が無いので仕留め後軽トラの荷台に燃せて更に罠を見回るが、結局獲物はこの一頭だけだったので清流に沈めて解体は明日。
 
 家に戻り、遅い昼食を摂って関町へ。今日は関の街道祭りで、メーンイベントの街道行列は終わっていましたが、まだまだ賑わっています。
 
 目的は関文化交流センターで行われる「伊勢平氏三代」の歴史講演で講師は高橋昌明神戸大名誉教授。会場にはお年寄りを中心として6~70人といった所でしょうか?
 
 講演内容は全くの期待外れで、平氏の系図をなぞるだけのものでした。関東を中心にした多くの平氏の中で何故伊勢平氏が武士としいて初めて政権を取れたかを亀山の地と関連づけた話を聞きたかったのですが、系図にちょいとエピソードを加えただけのもので、猟を中断してまで聞きにくるような内容では無かったな(^_^)
 
 たぶん聴衆の多くも同じような感じを受けていたらしく、2人の方が講演後の質問時間で平氏と海運や物流についての質問をされてみえましたが、時間的に短く論議は深まりませんでした。
 
 これは講師を選んだ人たちの能力不足だと思います。
 地位と知名度で講師を選んだので、多忙の講師は通り一遍の話しかされなかったのではないでしょうか?
 むしろ無名であっても今回の講演料が多額と感じられ(^_^)講演の為に意欲を持って準備をされる若手で熱心な研究者を呼ぶべきだと思うのですが、どうだろう? 
 
 平氏が権力を取れたのは対外貿易の利益であったと思います。
 その原点は、揚子江以南に追いやられた南宋が土佐沖から紀伊半島を廻って安濃津に至るルートで京や奈良に荷物を送っており、安濃津を根拠地にしていた伊勢平氏が貿易のうま味を知って忠盛の瀬戸内海賊退治へ至り貿易利益の独占に繋がったのではないでしょうか?
 
 亀山と平氏については資盛が殿下乗合事件で久我の地に流された事をみても、久我に拠点を持っていたのだろうし、平家の有力軍団「古市の白児党」は今の白子近辺で海運や市の防衛を担っていた武士だと言います。その間を繋ぐのが、先月の歴史イベントでも取り上げられていた「金王道」ですね。
  
 一軍の将である金王丸が部下を置いて伝令役をするはずが無いから、金王丸はこの道を走らなかったでしょうが、白子と久我を繋ぐ道は、伊勢湾を使って運んだ東国からの税を白子に上げて京や奈良の荘園主へ送る重要路であり、その物流を担ったり警備をしたのが伊勢平氏の一党であったと思います?
 
 つまり、伊勢平氏は一般的な所領からの収入だけでなく、物流と警備を担う事により多くの収入と農業から切り離された常備軍を持つことで他の武士団とは抜きんでて勢力を伸ばしたのではないでしょうか?
 この事は中山道を支配した近江源氏や瀬戸内からの荷揚げを支配した摂津・河内源氏にも言えると思います? もちろん、都への距離が近かった事もありますが。

 鈴鹿の山越え隊列を警備した多くが普段は猟師であった事でしょう?
 初期の下級武士は猟師だったのではと言うのが私の説(^_^)

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